今日は、病院の日。
担当の先生とは、20年になりますが、
医学って進歩している。。。と思います。
20年前は、どうしようもなかった病気が、治せる病気になっていたり、
どんな病気なのか、どうしてそうなるのかが、不明だった病気に
治療方法が生まれていたり・・・。
今日は、待合いで一人の女性を見かけました。
片隅で、ずっと泣き続けている女性。
看護師さんがしきりに、肩をなで、お話しされていますが、
女性の涙は止まることはありませんでした。
そのあとも、彼女は、一人、待合室の片隅で、涙をぬぐい続けていました。
きっと。。。。
でも、何もできません。
今の彼女には、誰の存在も、どんな言葉も、力になることは無いこと。
よくわかります。
私にできたのは、
横を通り過ぎるとき、そっと、「大丈夫。。。きっと。」そう祈りながら通り過ぎること。
20年前の自分を思い出しました。
私の場合は、涙が出たのは、家に帰って、子供の顔を見てからでしたが。
3才だった娘は、そんな私を見るなり、一瞬に表情が変わり、泣き始めました。
何も説明していないのに。何も話していないのに。何もわからないのに。
でも、ただごとではないことが起きたのだと察したのでしょうね。
子供って、凄い。。。とそのとき、思いました。
あのときほど、愛おしさが溢れたことはありませんでした。
それと同時に、
病気になる=悪いことをしたから or 過ちをおかしたから = 失格者
そんな思いでいっぱいになった日々が始まりました。
きっと、彼女もしばらくはそうでしょう。。。。
でも、病気になってできなくなることがいっぱいあるけれど
病気になって、できることも、いっぱいになることに
気づく朝がやってきますように。。。。
今日は、そんなこともあって、いろいろ、検査や先生の話を聞きながら。。。。
「神のおもんばかり」の詩を思い出していました。
以前、ブログでもご紹介したのですが、
どうやら、別のブログだったようなので、もう一度ご紹介いたします。
「神の慮り(かみのおもんばかり)」
大きなことを成し遂げるために
力を与えてほしいと
神に求めたのに
謙虚さを学ぶようにと
弱さを授かった
より偉大なことができるようにと
健康を求めたのに
より良きことができるようにと
病弱な体を与えられた
幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった
世の人々の称賛を得ようとして
権力を求めたのに
得意にならないようにと
失敗を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられていた
言葉に表されていない祈りが叶えられていたのだ
ああ、私はあらゆる人の中で
もっとも豊かで祝福されていたのだ
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この詩は、ニューヨーク大学病院リハビリセンターのロビーに掲げられている、
ある患者さんの詩です。
そのことを思い出しながら、
私は、健康であることのありがたさを忘れないようにと、
「病気」と向き合う時間を与えられている・・・・
と、何度も、何度も、思っていました。
そして、この意訳をされたのが、神渡良平さんという方なのですが
なんと・・・・
病院からお店に戻ったとき、スタッフが私に伝言を伝えました。
「今日、ある女性からお電話をいただきました。
富山元気プロジェクトの「降りてゆく生き方」の映画上映会のお問い合せでしたが
小矢部に神渡良平さんというかたが講演にいらっしゃるようで
その時に、映画のことや月の話をしていただければとおっしゃって・・・・・」
神渡? 良平さん? え!? 神渡良平さん!!!
すごいシンクロ。。。。
みなさんも、神のおもんばかりに感動する時間がいっぱいになりますように。。。。
感じれば、感動できます。